スター・ウォーズの物語は、新たなる希望で始まり、シスの復讐で終わった。

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スター・ウォーズをみなさんご存じだろうか。

続三部作、そして旧三部作の前の物語やスピンオフが公開・制作発表されるなかで、わたしは、そのひとつも観ることが叶っていない。

友人と「公開されたら絶対に観よう!」と約束していたのに。
約束していたから、わたしはそれを観ることができない。

1977年、わたしが生まれる40年も前に誕生したスター・ウォーズ。
<ジョージ・ルーカスがつくりあげた世界は、「エピソード4 新たなる希望」から人々を夢中にさせ、2005年「エピソード3 シスの復讐」で一応の幕を下ろした。

そして2015年12月18日、「エピソード6 ジェダイの帰還」から40年後の物語、エピソード7にあたる「フォースの覚醒」が公開され、話題をさらっていた。わたしはミーハーなので、そのブームに流され、観たいな、と思いながら、きちんと前シリーズを観ていないのに観るのはもったいないか、とも思っていた。

2016年1月15日、観たい、という気持ちが抑えきれず、その一日で、いままでの作品をすべて観た。朝9時に観賞を始め、終わった頃には日付を超えていた。
その長すぎる一日を一緒に過ごした友人は大のスター・ウォーズ好きで、もちろんフォースの覚醒は既に映画館で観終わっていた。

「今年はなんでも、エピソード1の前のストーリーが映画化されるらしいから、それは絶対に一緒に映画館で観ようね!」

簡単に叶うはずの約束だった。
2016年12月16日、「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」が公開された。でも、彼はもういないから、わたしはそれを観に行くことはない。

彼が大好きだったスター・ウォーズの物語はまだまだ続いている。
きっとこれから先何年、何十年と世界中の人々を熱狂させつづけるに違いない。

その楽しみを、彼は考えなかったのだろうか。

彼が大好きだったバンドは、それから何枚かの曲を発表した。
その曲のなかで、あの人は、不安に揺れることを肯定し、だれかと一緒にいることの力を柔らかな声と一緒にメロディーにのせた。

その声は、彼に届かなかったのだろうか。

毎日には、絶望と希望が、ミルフィーユのように折り重なって、わたしたちの前にいつも横たわっている。
彼がいたときも、いなくなったいまも、変わりなく。

わたしだって死にたい。
「生きるのって、こんなにしんどかったっけ?」と、過呼吸でぼーっとする頭で考える夜は割とやってくる。

でも、来週のおでかけを、また食べたいあのご飯を、いつか出会えると妄想しているこころから安心できる腕のなかを、想像できるから、わたしは思いきることができない。

言葉にして並べたら、なんて陳腐なものものであろう、とも、思う。

悲しみ、辛さ、しんどさ、疲れ、怒り、こころの痛みたちはいつだって計り知れない。

だから、あえて、自分のこころを浮き浮きさせるものの価値ははかったりしない。
それが生きるを前進させるに足るものか?それは止まることよりもわたしを楽にしてくれるのか?
そんなことを考えたって、考えなくたって、絶望と希望は海の満ち引きと等しいのだから。

ただただ単純な女の子でいたい。
おいしいものをおいしいと欲張り、たのしいときはへたくそな鼻歌を歌い、うれしいときは頬をゆるゆるにして、だれかの熱のとなりではぐっすりと眠る。

そのものの価値なんて知らなくていい。
それ自体がわたしをつないでくれるなら、なんだっていい。

「スター・ウォーズ」の物語は、新たなる希望で始まり、シスの復讐で終わった。
「きっと、うまくいく」は、ジョイの死のシーンより先を観ることができない。
きょうもわたしは「会いたい、会いたい」って、うわごとのようにつぶやきながら涙にあらがえない。
そして、彼と一緒に追悼したアラン・リックマンが、再び誰かを演じる機会は訪れない。

それでも、わたしが、そんなこと全部忘れて、馬鹿みたいに大きな声で笑い転げている間に、世界はすこしずつ、傷つきながらも前へと進んでいるのだから、なんかすごい技術がなんかすごくなって、アラン・リックマンでさえ、再びスクリーンで再会できるかもしれない。

抱えきれない希望を残さず胸に抱くことで、必然的に下は見えなくなるのだ。
だから大丈夫でしょう。きっと、うまくいくでしょう。

そう言い聞かせるしか、きょうもよく眠れるように

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