俳優になるためのワークショップ[台詞と向き合う編]に行ってみた!1日目 

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福岡県大野城市にある、大野城まどかぴあにて、9月21日から、9月23日の3日間、俳優になるためのワークショップ[台詞と向き合う編]が開催されました。今回、レポーターとして、この場に参加させていただけたので、ワークショップの模様をお届けします!

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講師は南河内万歳一座座長であり、演出家の内藤裕敬さんです。当日は写真撮影が禁止されていましたので、文字のみですが、ご了承ください。

2日目http://ohta6322.hateblo.jp/entry/2015/11/12/174001

3日目http://ohta6322.hateblo.jp/entry/2015/11/12/174300

1日目

30分前に開場し、ぞくぞくと参加者たちが会場入りして来た。見知った顔を見つけ声を上げる者、黙々と体のウォーミングアップに励む者、このような場が初めてなのか、当に期待と不安が入り混じったような顔で周囲に視線を走らす者――今回のワークショップの参加者は44人、高校生から40代まで、ここにいる全ての人間が、俳優を志し、この3日間でより多くのものを勝ち取ろうと胸に静かな闘志を燃やしているのかと思うと、彼等を見つめる私の手にも力がはいった。

講師である内藤裕敬さんが会場に到着し、時間通りに1日目のワークショップはスタートした。「俳優をやる、ということは、役を作るということだ」。まず、内藤さんのお話を聞くために、全員が身を寄せた。「役作りは経験がないと分からない、経験をなんとか積んできたが壁にあたった人もいるだろう」。今回集まった44人は、何年も舞台に立ち続けている者もいれば、場を踏んだことすらない者もいる。年齢の幅が広いように、それぞれの経験値もばらばらだ。しかし、内藤さんは皆にひとつのことを説いていく。「自分に足りないものを足していくしかない。足りないものを見つけ、今以上に何が出来るのか考える。今始めることで、5年後は大きく違うんだ」。「俳優をやる、そう思った時点で、君達は篩にかけられている」。俳優を志していない私にも容易に想像できる現実であるが、何年も舞台の世界に身を置く演出家からの言葉であると、尚、その言葉は重く響いた。「だからこそ出来ないことは埋めていかなきゃいけない。この3日間で、自分が篩から落とされる人間か、どのくらいの目の篩なら生き残れる人間なのか、分かるだろう。それを客観的に判断するんだ」。このワークショップはオーディションではない。抽選で偶々選ばれた44人が3日間顔を突き合わせ、それぞれの意志と経験をぶつけ合うが、結果として残るのは選ばれた者じゃない。きっと、それぞれが、それぞれによって、自らに現実を突き付けることになるのであろう。

体を動かすために、自由に歩いてみるように指示が出た。44人が一斉に入り乱れる。「見られている意識をもって!」内藤さんの言葉に、背筋がぴんと伸びる者がいた。舞台上であるなら、どんなに隅にいても、どんなに光が当たっていなかったとしても、観客の誰かは自分を見ている筈だ。例え装置が転換していたとしても、だ。客席との隔たりもない、舞台装置もない、いくつかの長机と椅子とホワイトボード、それらと同線上にあるここはもう舞台だった。次に大きくて手を動かして、颯爽と歩くようにと言われる。全員の姿がよりしゃんとしてくる。しかし、次に人とぶつからない、人のいないスペースに向かって歩くようにとなると、また背中を丸める者がちらほらと見えた。定員であった20名を優に超えたこの人数だと、傍目には見える空間の穴を見抜くのも、難儀なことになる。そしてそれに集中する余り、姿勢や見られている意識の方を怠ってしまうのだ。だが、それでも、時間が経つに連れて、段々と皆が空間の広さと人の多さを体感し、他人との距離感を掴み出した。空間認識は重要なことである、と内藤さんが仰った。舞台上には複数の人間、装置、様々なものがある中で、自分はどうポジションをとるのか。「そして歩いているうちに海が見えてきた」。突然、内藤さんが語り口調に変わった。体を動かすという作業から、イメージを膨らます段階へ移行していった。自分の海を見て、音を聞き、匂いを嗅ぐ。それが出来なきゃ、俳優には向いていないとの厳しい声も。役作りも演劇も、全てはイメージであり、形だけでは意味がない。逆にイメージが豊かに膨らんでさえすればいい。台詞もイメージで裏付けする必要がある。

次に、様々な方法で歩くことが要求された。ツーステップや、手と足が同時に出るナンバ歩き、上げた足の膝裏で手を打つパチパチ歩き、それらがランダムに指示される。体がリズムに乗れない者、歩き方に気を取られて人とぶつかりそうになる者、思うように手足を動かせずに姿勢が乱れる者が、彼方此方に現れた。暫く繰り返し、また普通に歩くようにとの指示が出たが、その瞬間こそ大事だと言う。「気が抜けたとき、何かが途切れる。危ない。ミスをする。集中力にもスタミナが必要だ」。

「そして、歩いていると気付けば森の奥深くに来ていた。見上げた木々の葉の隙間からは青空が見える。そこにある空気を吸い込み、葉音に耳を澄ませる。すると突然辺りが薄暗くなってきた。どんどんどんどん、光が失われていく。先程青空が見えていたところには、月が浮かんでいた。その月は、自分を中心に、半径1メートルの空間だけをぽっかりと浮かび上がらせていた。その先は、何も見えない暗闇だ。照らされているところと、その先の境目で、何かがゴソゴソと音を立てた。何かは分からない。音が増える。集まってきているようだ。十何匹いるだろうか、いや、何十匹?すると、突如としてその音が止む。代わりに、前方に大きな何かの気配を悟った。そいつは、私を睨んでいる。じっと睨んだまま、音も立てずに私の右手へじりじりと移動してきた。右手へ、そして後方へ、ゆっくりと回りこまれる。怖くて振り向けない。いつ、そいつの生暖かい息や冷たい鼻面を感じることになるか。そして遂に、ももや膝の裏に、息がかかった。そいつは私に何かしようとしている、今にも、がぶりと私の体を――、前方がさっきよりも開けているのに気付く。頭上には青空があり、背後の気配も消えていた。どうやら夜が明けたようだ。元の森に戻った。匂いと、音を感じる。そしてまた歩き出す」。

内藤さんの口から紡がれるストーリーに、44人がそれぞれのイメージの世界を作り上げて行った。自分がいる世界を信じ切れなければ俳優ではない、その言葉にここにいる全員が答えられているのだろうか。

続いて、体を解す為にジャンプをするが、ここでも指示が出る。腕と足を開いて、閉じて、と繰り返すだけではなく、決まったリズムに乗って飛ぶのだ。まずは、①腕を開いて、開いて、閉じる。次に、②腕を開いて、閉じて、閉じる。①と②のとき、足は、開いて、閉じて、開いて…と交互に繰り返す。そして今度は逆に、③足を開いて、開いて、閉じる。最後に④足を開いて、閉じて、閉じる。①~④をそれぞれ二度づつ繰り返すのだが、簡単な動作のようで、案外難しい。特に、足をリズムにのせる③と④になると、途端にめちゃくちゃになってしまう者が急増した。普段の生活の中で、私たちは、自分の体は言うことを聞くものである、と思い込んでいるが、それは慣れた動作のなかだけの話で、実は聞かないことの方がずっと多いのだ。そして、舞台上では、普段しないような動きを要求される。ひとりで、①~④の動作を体得するのは難しいようで、4人組を作ることとなった。ひとりひとりがひとつのリズムを担当し、4人で通して、全てのリズムを体得するのだ。暫くの練習時間を設け、ひとグループづつ皆の前で披露する。内藤さんが課したルールはふたつ。途中で間違っても、最後までして次の人へバトンを渡すこと。それと、たとえ間違えても顔だけは間違えたという顔をしないこと。「そうすれば客は分からない。どうせ間違わなかったとしても、よく分からなかった、なんて客は言うんだから」。という内藤さんの言葉に、発表を控えて硬くなっていた受講者達の顔が綻んだ。44人が4人組をつくると、11のグループになる。渡された台本はひとつ。にも関わらず、個性の表れか、緊張からの取り零しか、それぞれのグループに違った面白さがあった。それを見て、内藤さんはシェイクスピアのハムレットに例えた。「散々上映されて、最早ハムレットをすることに意味なんてない。ハムレットをどうしてやるかってとこに意味がある。まだこんな面があったのか!と、思わせられるかどうか。シェイクスピアが書いたものは現代にも通ずるものがある。古典は未だに新しいからこそ古典なんだ」。それは私にとっても古典の新鮮な意味付けだった。口で「開く、開く、閉じる!」と大声を出しながら、体が逆のことをしている者もいた。意外にも、内藤さんはそれを「君は素直な人だねえ」と評した。泣きたいときに無理して笑うとき、飛び上がって喜びたいのに何でもない振りをするとき。身体と心と言葉が合致しないときは結構ある。当の本人は「これで正解です」と言って笑った。

10分程の休憩を挟み、今度は声出しに移った。V字腹筋の姿勢で、ひとり10カウントづつ数える。それを全員終えるまで。今日のワークショップの中で、一番身体的にきつい時間のスタートだ。「あえいうえお…」と発声するのは舌周りの練習になる。V字腹筋をしながらの発声は、アーティキレーションの練習も合わせてすることができる。舞台上では激しく動きながら台詞を言うことが要求されるので、心拍を抑えながらの発声が実践的なのだ。腹筋に負荷がかかった状態で、震える声に、「語尾をしっかり!」という内藤さんの声が飛ぶ。「どんだけ練習しても、台詞が聞こえなきゃ全部がパァだ!」イメージ力と共にフィジカルもとても大事だ。体が疲れると、喉だけで発声してしまう。そうすると、喉がやられ、台詞を観客に届けられず、1日2公演を熟すことはとてもじゃないができない。続いて、ワンブレスで10カウント、20カウント、30カウントを唱える、「アーーー」と発声し続ける訓練が行われた。そしてまたV字腹筋へ。今度は、それぞれが好きな順に20までカウントを唱え、誰かと被った時点でやり直しというもの。ここでは周りの気配を伺い、前に出るときは大胆に、そして引くときはぐっと我慢することが求められた。何度も何度も最初からやり直しになり、皆一様に苦しげな表情を浮かべる中、なんとか20カウントまで叫ばれたときは、会場全体が一体感で包まれていた。

フィジカルが鍛えられたところで休憩を挟み、またイメージを膨らます作業に。天井からピンと張られたロープが、ぷつりと切られて床へ落ちる。そのロープを演じる訓練が繰り返された。張り詰めていたものが、だらしなく床に落ちているとき、そこに緊張は残っていないはずである。とにかく体から緊張を取り除くこと。「こめかみ、唇の端、耳、髪の毛!」内藤さんに指摘された一部がぴくりとするのが見えた。また、ロープが落ちるというのは自分にとってどういうイメージであるのか。死?喪失?解放?敏感で豊かで柔軟であれば、体がそれを教えてくれる。思考するといままでの学習と経験と知識の内側から出ることができない。思考を下敷きに、体は外側で表現する。外に伸びれば、自分の思いも寄らないところへと進める。思考では経験の多い年長者に劣るかもしれないが、身体と精神性を高められれば、拮抗できるのだ。このとき、大事なのは台詞を考えるのではなく、遊ぶこと。自分の体が、産毛や毛穴が教えてくれることがある。そこから作り出される表現があるから、段々皆の間に違いが生まれる。表現の可能性が見えてくる。

他に、洗濯機を見つめていると自分が洗濯機に揉まれる側になり、そして海に浮かぶ一枚の布切れに変化する、という訓練も行われた。本来ならこれらのイメージの訓練を1年半ほど続けられる。そうすることで精神と身体が鍛えられ、台詞へとはいっていけるのだ。

1日目ワークショップも残り30分となったところで、一枚の紙が配布された。残りの2日間やり込んでいく台本である。台風の日にある建物の屋上に上がった十数名が交わすシンプルな会話。3つのグループに分かれて、一枚の台本に向き合って行く。配役を決めたり、設定を膨らます作業をする各グループに内藤さんが声をかける。「とりあえず一回してみるのも大事。稽古は実験する場だ。そんで、面白いものが生まれるか開発していく」。長い台詞だと、イメージをどう発展させるかが鍵となる。それに対して今回の台本は台詞ひとつひとつがとても短く、書かれていることは少ない。書かれてないことの方が多い。しかしそれと同時に書かないことで、沢山のことを書いているのだ。行間でイメージを膨らまし、それを検証していく。

明日のワークショップは、この台本を演じてみることからスタートする。今日、初めて出会った役者たちが、どんな演技をするのか、また、今日教えられたことが、この台本にどのように組み込まれ活かされるのか、いまからとても楽しみである。

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3日目http://ohta6322.hateblo.jp/entry/2015/11/12/174300

 

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